蓮のうてな~GT~

カテゴリ:北へ 三浦半島編( 9 )

やっとここまで

南の端にある毘沙門天さんから雷神社まで、三浦半島を北上してきました。
ここから先、和田山から向こうは相州ではなく、武蔵の国に入ります。
今は横須賀市と横浜市の境目です。

ちょびっとずつ、思ったことを書いてみたいと思います。


・毘沙門天  この企画をやろうと思い付いて初めて訪れたところです。
       友達に場所を案内してもらわないとたぶんたどりつけませんでした。

・走湯神社  温泉湧いてたらうれしいな~と思いました。

・白山神社  こんなとこに古墳があるよ!とたまげました。

・須軽谷八幡社 ここも道が狭くてわかりづらかったです。
        よくぞたどり着けました。

・太田和八幡宮 明らかに村のお宮さんですが、とっても綺麗な感じがしました。
        それよりも、幼稚園のパーシー?が気になりました。

・阿倍倉諏訪神社 個人的な理由により、もう訪れることはないかと思います。
         道が狭すぎて怖いんだよぅ!

・船越神社  昔おい茂っていた森が開発でなくなったときは、裸にされた神社みたいでちょっと気の毒に思ったりもしたのですが、
       現在村・・いや町の氏神様としてパワーを発揮!

・白川稲荷  お稲荷さんなのにお狐さんの人形はありません。なぜ?

・雷神社   個人的にお気に入りの神社です。今回は求めませんでしたが、絵馬の図柄がまたいいんです。


ここから先、はたしてどこまで行けるのでしょうか?
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by yuzu-lotus-gt | 2010-03-21 21:57 | 北へ 三浦半島編

雷神社

まだ真冬なのに暖かいな~と思える日に、追浜にある雷神社へ。
皆さん「かみなり神社」と呼んでいますが、本当は「いかづち神社」なのです。

ご祭神は 火電命 境内社には、お稲荷さん、日本武尊社もあります。

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創建は承平元年(931年)!!
当地浦之郷の住人が天上から火の霊を授かったために祠を建てて奉伺したという。

1581年、11月3日領主朝倉能登守が旧地「苗割」より当地に奉還した。
かつて塩浜にあったとき、永禄年間の落雷にはこの神の加護によって塩浜にいた12人の婦女子は助かったという。
1591年徳川氏が浦之郷に朱印地二石を賜う。

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1707年9月に酒井雅楽頭(うたのかみ)が武運長久と当地の除災を願って社殿を再建した。
明治6年に旧村社に列せらる。
同16年慶大を拡張し社殿をさらに上段のいただきに近い現位置に改築した。

当社は浦之郷村の鎮守として永く村民に崇敬された。
源頼朝が国家安全祈願のため奉幣したと伝えられる。

また海上安全、除災の守護神として広く信仰され、崇敬者は関八州、江戸市全域に及んだという。

「三浦半島の仏教寺院と神社」 より

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この神様は誰でしょう?もしや、タケルさん?

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こちらはお稲荷さん。

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こちらがもともとの雷神社の場所。

 この槇柏の大きな幹が黒こげになったまま立ち枯れている。

江戸時代の少し前から、このあたりの領地は朝倉能登守景隆(あさくらののとのかみかげたか)が支配していた。
ある都市の6月15日のこと、村の娘たち12人があつまって築島さまの境内で
にぎやかに笑いながら夕方の片づけ仕事をしていた。
その頃は築島さまの近くまで海がいりこんでいたので、この付近は入浜式の塩田がかなりあったらしく、
今でも碑文のある場所にある池は昔の塩田跡だったといわれているくらいである。

ところで、その日は夕方まで雲ひとつない晴天であったが、夕方になると急に雲行きがあやしくなり、
雨雲が低く垂れこめたかと思うまもなく、豪雨とともに、閃光につぐ雷鳴が轟いた。
あまりにも急な雷雨におどろいた娘たちは家に帰るどころか、稲妻に目もくらみどうすることもできなくなり、
お互いに身を寄せ合ってその場にうずくまり、ただ神様にいお祈りをするだけだった。
どのぐらいの時がたったのか、やがて激しい雷雨もうそのようにピタリとやんだ。

うずくまっていた娘たちが恐る恐る誰からともなく顔をあげると、不思議なことに一刻ほど前とは比べようにならないほど
様相がかわって、築島様の御祠はどこへいったことやらお姿さえみえない。

そればかりではなく、さきほどまで境内に深々と茂っていて娘たちが身を寄せあった頭の上の神木である
槇柏は枝も葉も飛び散り、幹は黒こげになってしまい、落雷による煙があたり一面にたちこめていた。
だが、娘たち12人はみんな無事であることを喜び、これは築島さまが私たち12人の身代わりになってくださったに違いないと、
改めて神様に感謝した。

やがて娘たちの無事であったうれしいニュースは村中にひろがり、領主の朝倉能登守のもとにも報告された。
それを聞いた領主は、早速村人にはからい、新しい社殿を建立し、「築島さま」にかわって「雷神社」と名を改め、
社領を寄進して村の鎮守としたので、石碑に「再興し奉る雷電大明神御宝前総」としるされ、
「朝倉能登守大檀那新造立」とされている。

「三浦半島の伝説」 より


ところで築島さまとはなんでしょう?

 雷神社の奥の院だった。
関東大震災までは、大潮の満ち潮の際には、前を流れる鷹取川まで潮が満ち小島になった。
約五百年前ごろ、女性の生理は不浄とされ、迷信に惑わされてその時期は、家族と離れ、島の掘立て小屋で過ごした。
この悪風は近代まで続いたが神社は天正9年(1581)場所を改め、再興した。

「横須賀市追浜地区情報 おっぱまタウン」より

生理が不浄って・・・失礼よねっ。(プンプン)
でも、そうやってみんなで集まってわいわいしながら手仕事しながら日頃の疲れを癒してたのかもしれませんね。
そうでもしないと、女性ってなかなかお休みももらえなかったでしょうし。
「不浄」という言葉はあまりよくないけど、男性たちやおばあちゃんたちからいたわってもらってたんでしょう。


秋に訪れたとき、御神木のイチョウがとても見事で見とれてしまいました。

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by yuzu-lotus-gt | 2010-03-09 22:06 | 北へ 三浦半島編

白川稲荷

今回は「近所の人しか知らんのとちゃうか?」と思えるほどのお稲荷さんです。
ちょっとホラーテイスト溢れるトンネルの隣にちんまりと鎮座してます。

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ここは「皆ヶ作(かいがさく)」という集落のはずれにあります。

地元商店の守り神としてまつられている。
お堂には五穀豊穣、家内安全、商売繁盛のお札がはられている。(田浦をあるく より)

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昔、この港に海軍や軍関係の施設、海軍工廠などができたとき、地方からたくさんの人が移り住んできたそうです。
海軍ですから、もちろん男性のほうが多い。
となると、当然色街もできる。
そう、この一帯はかなり有名な色街だった・・と近所のすけべなじぃさん
物知りの大先輩からお聞きしました。

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毎年節分会には、ここから鬼にコスプレした近所のすけべなおっさんがかわいい奥さんや
子どもたちを脅して町内を周ります。
これも、色街が華やかなりし頃からずっと続いているそうです。



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by yuzu-lotus-gt | 2010-02-25 23:11 | 北へ 三浦半島編

船越神社

南の端からやっとここまできました。
船越神社です。
R16を追浜に向かって船越トンネルを出るとすぐにあります。

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ご祭神は大山咋命さま、速玉男命さまです。

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明治の始めまでハス向かいの景徳寺境内に熊野神社がありましたが、
神仏分離令によってこの地に移し、昭和三年もう少し東側にあった日枝神社と合わせて
昭和九年一月に熊野神社の地名によって船越神社と改めたとのことです。
(三浦半島の仏教寺院と神社 より)

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むか~しむかし、このあたりの浜で漁師たちが朝早くから出漁準備などでいそがしく
たち働いているときのこと、沖合にゆらゆらと浮き沈みしながら波間にただよう「朱塗りの小舟」がみえた。
それをみつけた漁師たちは、何だろうと思って仕事の手を休め、沖の方をみつめた。
すると、不思議なことに小舟の中から黄金の御光があたかも月の出をつげるかのように輝いている。

漁師たちはおどろき、また不思議に思って、沖にくりだし小舟に近づけば、
その小舟の中に八寸三分の丈がある立派な観音菩薩像が立っていた。
実は、漁師たちがおどろいた不思議な光は、この尊像からでている御光だったのである。

さらにおどろいた漁師たちは、注意深く朱塗りの舟を波打ち際に引き上げ、大切にこの観音像をおろすと、
まずもって名主の家に相談にでかけた。
その後、この像は近くの「景徳寺」という臨済宗の寺に安置され、本尊として漁民の信仰を集めた。

また、朱塗りの小舟も同時におさめられたのだが、この時から観音様(十一面観音菩薩)が
沖から舟でお越しになった地であるということから、この由緒ある地を「船越」というようになったのであるという。
(三浦半島の伝説 より)


・・・ほんまかいな?
江戸後期までここには集落もなかったと、農家一軒やったと私は聞きましたが・・・
まぁ、あんまり突っ込むのはよしとしましょう。

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それよりも、船越という地名は日本各地にみられ、「舟が近道をするために山越えしたので、
その起点につけられた名前だ」という話のほうが説得力があるし、また、船越という地名は
いずれも海岸近くにあり、交通の拠点で舟を使う場合、海路をとおって迂回させるよりも山越えしたほうが
はやいという場所で、昔はいずれも舟を山越えさせたという話が伝えられているところである。

つまり、運河をつくると便利!という地形の場所なのだ。

実際、逗子の沼間(船越の山越えた隣町)の歴史資料の江戸時代のものに「船越から田越川に通ずる運河をつくることに反対である」
という意味の文書がみつかったらしい。
(三浦半島の伝説 より)

想像してみましょう。
現在二車線より狭いはずのあの道をうんこらえいこら逗子海岸からある程度まで田越川でさかのぼり、
途中から陸路で山越えをしてくるんですよ。

舟が!

すごない? すごいよね?

その反対された運河がもしできていたら、この辺の雰囲気も全然違ったものになっていたかもしれない。
せっかくならその舟に乗って、鎌倉参りとしゃれこむのもまた一興だったんじゃないかと思うのでした。




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by yuzu-lotus-gt | 2010-02-17 15:55 | 北へ 三浦半島編

阿部倉諏訪神社

横須賀にはまだまだ秘境のような場所があります。
そのひとつが阿倍倉。
なんでも、三浦一族が隠し湯として持っていた温泉もいまだ現役でこちらにあるとか。

でも、温泉は大好きなので次回行くとして・・
今回は諏訪神社へ。


急な坂道を下りていくと竹藪があります。

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とても立派な御神木。

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御祭神は「建御名方命」さま。
昔の下平作村にあり、いつ頃勧請したのかは不明。
(三浦半島の仏教寺院と神社 より)

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この神社のある阿倍倉には昔から七不思議の言い伝えがあります。
1・明神の相生の松=阿倍倉の鎮守、諏訪神社の境内に松を植えると、必ず相生の姿になる。
2・向山の南面の月=向山と呼ばれる山の上に出る月は、必ず南の方向にだけ見える。
3・湯の沢の昼の蛍=湯の沢地区では、昼でも蛍が光を出して飛ぶ。
4・湯の沢の夫婦石=湯の沢にある二つの石に祈ると、夫婦は仲良くなる。
5・湯の沢の朝夕の霧=湯の沢では、四季を通じて朝も夕方に濃い霧が立ち込める。
6・平山の片葉の葦=平山地区に生える葦は、葉が必ず片方ばかりに出る。
7・萩野の勝手水=萩野知久のどの井戸も、春と夏は水をたたえ、秋冬になると枯れてしまう。
  (どこへ井戸を掘っても必ず清浄な炊事用水が出る、とも言われている)

                        (古老が語るふるさとの歴史 衣笠編より)

つっこみどころは満載なんですけど・・・
まず、現在松は確認できませんでした。
2番目、ちょっと意味がわかりにくいです。方角によるのでは?
345 はちょっとスルーして。
6番目は方角の問題ではないでしょうか?
7番はなんか伝説と(かっこ)の内容に矛盾があるかと。

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ここより少し南東方向に行くと、衣笠城址があります。
もしかしてもしかすると、この七不思議って何らかの「謎」ときが込められているのでしょうか?



ここの割と近くに住む友人も、阿倍倉はちょっと変わってるかも?
と言ってました。
もし、いろいろと情報をおもちの方いらっしゃいましたら、ぜひお話を聞かせていただけないでしょうか?
よろしくお願いします。

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by yuzu-lotus-gt | 2010-02-07 14:31 | 北へ 三浦半島編

ふたつの八幡宮

天気のいい冬のある日、横須賀は須軽谷にある八幡神社に行ってきました。
須軽谷は「すがるや」と読み、日本ではここだけの地名です。
そんなのんびりした雰囲気なのにスガルてな骸骨ちっくな地名を持つ須軽谷ですが、
全然ホラーな場所ではありませんよ。
むしろ、道が狭くてわかりづらいのよ。

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御祭神は誉田別尊(ほんだわけのみこと)、 つまり応神天皇さまのことです。
こちらは古い文献を調べると、どうやらこちらは源氏の氏神としてお奉りされたようです。
もう由緒などははっきりとはしないそうですが、男山八幡宮(石清水八幡宮)を勧請した、とあります。

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さて、割と近いところにもうひとつ八幡様があります。
太田和の三浦正八幡宮です。

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こちらも同じほんだわけのみことさまをお奉りしているのですが、鶴岡八幡宮を分祀したと伝わっています。
太田和の村がその昔北條氏から鶴岡八幡宮の社領として賜ったことから、
もともと小田和にあったものを今の場所に移されたそうです。

ここもぽかぽかしてて、なんかいい感じのお社でした。

ただ、わずか3キロほどを隔てて向かい合う源氏と北條氏。
なんか複雑な気持ちになります。

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つか、これは一体?トーマス?パーシー??

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by yuzu-lotus-gt | 2010-01-24 21:53 | 北へ 三浦半島編

古墳もあるよ 白山神社

さて、今回は先の走湯神社からほど近くにあります、白山神社です。

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こちらの御祭神は伊邪那岐尊、伊邪那美尊さん。
相殿には大ひるめの尊、水歯別尊、國常立尊さんがお奉りされています。

白山神社でいただいたリーフレット(プリント紙)によりますと・・・
最初は菊名字仲里の山林に埋もれ、白山宮と呼ばれていたが、1684年現在地にうつされた。
創建年代、由緒などははっきりとはわからないが、三浦道寸義同の家臣 菊名左衛門重氏の守護神ではなかったか?という。

仲里は菊名氏の別荘「浜御殿」があったところで、神社の裏山は「じょんやま」と呼ばれ、
後三浦一族が北条早雲の軍と戦った城山の跡と伝わる。

三浦一族滅亡後、菊名氏も滅び以来久しく社頭も荒廃にまかせてあったが、村民相謀って現在の地に社殿を造立した。
現在の社殿は昭和45年に増改築の際、耐火建築に改められた。
周辺は農業、漁業ともに盛んな土地で、海上安全、大漁満足、五穀豊穣、家内安全、子孫繁栄、商売繁昌の神様として、今もなお大切にされている。

そうです。

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境内社金比羅宮石段上にある「切妻造妻入型横穴古墳」は無類に大きく、
奥行き約6メートル、幅約3メートル、高さ1メートル70センチの横穴天井部分は美しく切妻型に削られ、
柱などに浮き彫りが施されて赤塗りの跡が残っているため、奈良時代、氷蛭郷と呼ばれていた当地を支配した豪族の墓とみられている。 

そうです。

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これが、その古墳入り口。
ちょっと中までお邪魔する勇気はありませんでしたので、ここで失礼。
確かに綺麗に彫られた古墳であることはよくわかりますよね。

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しかし、突っ込みどころも満載で・・・なんでじょんやまやねん?と。
でも、これは調べました。
元々「じょうやま」と呼ばれていたところですが、なまってじょんやまになったそうです。
決して「ジョン」の山ではありません。

神様も結構なマルチっぷりを発揮なさってて、グゥです。

ただ、この古墳ですが、私のもつ奈良時代の古墳といえば「前方後円墳」なんです。
実家の付近はこれが多いんです。
確かにこの形だと豪族やな~と思えるんですが、こちらは山に横穴。
で、想像してみました。

もしかしたら、この地に流れ着いた朝鮮半島あたりから来た技術者なのではないかと。

三浦半島にはその手の古墳が多いと聞きます。
これもそのひとつなのかもしれません。


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by yuzu-lotus-gt | 2009-12-22 12:06 | 北へ 三浦半島編

温泉はないよ 走湯神社

三浦海岸のも少し南、金田湾の海岸からちょっと内側に入ったところに
走湯神社があります。
小さな地元に愛されてる神社って感じのお社です。

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一体いつ建てられたのか由緒が定かでない。 とのことですが、創建された当時はもしかしたら
温泉が湧いていたのかも?しれませんね。

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ご祭神は天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)さんです。

後ろにはこんもりとした鎮守の森が静かに金田の畑の中にありました。

ちなみに、本家本元伊豆山神社(全国に散らばる走湯神社の事実上の総本社格。)には、こんな縁が。

「源頼朝は平治の乱の後伊豆国に配流されたとき、当社に源氏再興を祈願した。
この間有力豪族の伊東祐親に追われて当社に身を寄せたり、小豪族の娘であった北条政子との逢瀬の場に
するなど深い関わりを持ち、後に鎌倉幕府を開くとここを「関八州鎮護」と称えて多くの社領を寄進した。
南北朝時代の「寺領知行地注文」によれば、遠くは越州に至るまで数多くの知行地を所有していたとされる。頼朝と政子の恋の舞台であった事から、現在も縁結びや恋愛成就を目的とする参拝客に人気がある。」

(ウィキペディア先生から引用)

だそうです。
もしかすると、ここの走湯神社さんもそんな縁結び伝説とか、頼朝公と縁があったりして。


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by yuzu-lotus-gt | 2009-12-05 22:22 | 北へ 三浦半島編

南の端の毘沙門天

今回私が起点として訪れたのは、こちら。
三浦市のほぼ南の果て。 白浜毘沙門天さん。
本当なら微妙に海南神社さんのほうが南にあるのかとは思うのですが、まぁそこはちょっと置いといて。

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こちら、三浦半島開運めぐりにも指定されているようです。
お宮さんなのか、お寺さんなのか、かなりあいまいな感じではありますが。
(このへんに関しては、かなり詳しく考察されてる方もいらっしゃるようなので、そちらにお任せしたいと思います。)

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中を覗くことができましたので、こそ~っと覗き込んでみたところ少し荒れてるようにも見受けられました。
おそらく、訪れる人は少ないのでしょう。

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看板読めますか?
要約すると1368年に開かれ、ご本尊の毘沙門天さんは行基の作といわれているようです。

しかし、元は浜に流れついた毘沙門天さんの像があり、それをこちらにお奉りしたのが始まりのようです。
ちなみに、現物は数年に一度しかご開帳がないようですが、図書館で写真をお見受けしたところ、
ものすごく朽ちていました。 ていうか、めちゃプリミティブな感じ。

行基さんの作品はもっと年代が後だったのか?立派でした。

毘沙門天とは、北方を守る神様でもあります。
武神でもあり、商売繁盛の神様でもあるのです。

が、なぜかこの南の端にあります。

なぜなんでしょう?

ちなみに、うちの地元高槻には日本で最初に毘沙門天さんをお奉りしたお寺さんもあります。



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by yuzu-lotus-gt | 2009-12-03 22:32 | 北へ 三浦半島編