蓮のうてな~GT~

カテゴリ:まりもメモ( 13 )

まりもメモ・岡村天満宮

お久しぶりです・・・まりもです。

新年早々引いた風邪が長引きまして・・・歳を増すごとに風邪も治りにくくなりませんか?
・・・私だけ・・・?・・・みなさんも、体調にはお気をつけ下さい。

さて、時間が経ってしまいましたが、岡村天満宮について・・・。

菅原道真が北野天満宮に天神として祀られた後も、天満大自在天神、日本太政威徳天と呼ばれ恐ろしい怨霊として恐れられました。
神となっても100年程、大きな災害が起きると、天神の祟りだと言われていたのです。
天神の祟りを治めようと、各地に天神社が建てられ全国に天神信仰が広まっていきました。

平安時代末頃から怨霊と恐れられることが薄れて、道真が秀才で優れた学者だったことから学問の神として信仰されていき、鎌倉時代初期の「天神縁起」には、慈悲の神・正直な神としても信仰されていたようです。

岡村天満宮を創建したのは、源頼朝の家臣と伝えられていますが、建久年間(1190~1198)に磯子周辺を領地にしていたのは、三浦氏一族の平子氏(たいらごし)でした。
頼朝の家臣で、平子有長(たいらごありなが)と言う人物がいます。
平子有長は頼朝が平家追討で旗揚げした時に、三浦氏に加わり馳せ参じ、後に御家人となっています。

鎌倉から室町時代にかけて磯子周辺の村々を合わせて平子庄といい、玄蕃屋敷といわれる平子氏が関る家人が住んでいたと思われる、屋敷跡もあります。

・・・と言うことから・・・あくまでも私の想像ですが・・・。

岡村天満宮を建立したのは、建久年間に磯子周辺を領地にし、頼朝に仕えていた平子有長だと思うのです。

京都の北野天満宮から天神を勧請したのはなぜか・・・?

天変地異を治めるために・・・という理由はこの時代もう薄らいでいると思われ、学問の神として・・・と言うのも、なるほど・・・というほどの理由とは思えません。

三浦氏宗家はもともと源氏と繋がりがあり、頼朝が流人として伊豆にいた折にも配所を訪ねていました。
平子有長は、平氏討伐後に三浦氏の推挙によって御家人の列に加わっています。
幕府内での平子氏の地位は、頼朝が幕府を開く以前より関わりのあった御家人達に比べると、そう高くはなかったのではないか・・・と想像するのです。

菅原道真の家はもともと学問で天皇家に仕えていて、深く公の政には関わることはなかったのですが、時の天皇に目をかけられ、藤原家以外で異例の出世をとげた・・・と言うことを平子有長も知っていたでしょう。
後に道真は無実の罪で左遷となり、非業の死をとげ怨霊となってしまいますが、道真の出世を平子有長は幕府内での自身の出世と重ね合わせ願をかけた・・・。

もちろん、無骨な坂東武士といっても和歌を詠むくらいの教養は必要であったでしょう。
けれど、学問や教養の向上のためだけに天神を迎えた・・・とは思えないのです。

みなさんは、どう・・・思いますか・・・?
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by yuzu-lotus-gt | 2011-02-22 16:50 | まりもメモ

菅原道真・2

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東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ

道真の死後、都では天変地異意や日照り、疫病などがおこります。
また、道真左遷に関った者、その縁者が亡くなっていきます。

最初は、道真左遷の陰謀に関与した、藤原定国(ふじわらのさだくに)が40歳で急死(906年)

道真左遷の知らせを受け、醍醐天皇へ直訴するために駆けつけた宇多上皇を、皇居門前で阻止した藤原菅根(ふじわらのすがね)が雷に打たれて死亡(908年)・・・この人は、道真が目をかけていたようです。

道真左遷の張本人・藤原時平は狂死、39歳(909年)
時平の両耳から道真の化身の蛇が現れて、祈祷も利かなかったといいます。

道真に不満をもち、職務放棄などをした中心人物の源光(みなもとのひかる)は、狩の最中、馬と共に底なし沼にはまり行方不明(913年)

醍醐天皇の皇太子・保明親王(やすあきらしんのう)が21歳で急死(923年)

延喜23年(923年)朝廷は、天変地異や怪奇現象等は道真の怨霊によるものと考え、道真を大宰権帥(だざいのごんのそち)から右大臣に戻し、道真左遷に関する天皇の詔の関係書類を焼き捨てます。
この時の火が周辺に広がり、その場にいた役人や僧侶が何人も焼死しするという事故がおこります。

保明親王の子で醍醐天皇の皇孫、父の死後、皇太子となった慶頼王(よしよりおう)が5歳で病死(925年)
保明親王は時平の娘を妃に迎えていて、慶頼王は時平の娘が生んだ皇子でした。

息子や孫が亡くなって、醍醐天皇の心は穏やかではなかったでしょう。

その後も、干ばつや天変地異は続き、延長8年(930年)6月26日午後1時半頃、にわかに都に黒雲が垂れこめ、激しい雷雨となり、朝議中の清涼殿の柱に雷が落ち、道真左遷に関与したと言われる、大納言・藤原清貫(ふじわらのきよつら)が雷の直撃をうけ即死。
周辺にいた他の貴族・女官にも死傷者が出ました。

朝廷はこの出来事で、道真の怨霊・祟りにパニック状態!
菅原道真の怨霊は雷を操り雷神となって、日本に大きな祟りをしようとしている!と人々は噂し恐れました。

道真が天神さまと呼ばれるようになったのは、この落雷事件で雷神と結びついていると考えられたためです。

清涼殿の落雷事件の後、朝廷は地方に左遷した道真の息子達を京に呼び戻しています。

醍醐天皇は、落雷の惨劇を目の当たりにしたためか体調を崩して、8歳の皇太子・寛明親王(ひろあきらしんのう)に譲位(後の朱雀天皇・すざくてんのう)、落雷事件の3ヵ月後、46歳で崩御しました(930年)

道真の祟りに怯える藤原氏が多い中、藤原忠平(ふじわらのただひら)は、清涼殿落雷の時も難を逃れ、祟りの影響はありませんでした。
忠平は道真左遷の張本人・時平の弟なのですが道真と親交があり、兄・時平とはあまり兄弟仲は良くなかったようです。
忠平は、大宰府にいる道真を気の毒に思い励ましの手紙を送っていました。
時平の死後、その子供達も道真の祟りのためか子孫は衰退しますが、忠平は後に、摂政・関白となり藤原北家の中心となって子孫は栄えます。

・・・ちなみに、後々の事になりますが、この忠平に平将門が家人として使えていました・・・。

清涼殿の落雷事件から15年ほどたった頃、多治比文子(たじひのあやこ)の夢枕に道真が現れ「北野の右近の馬場に祠を建て、私を祀ってほしい」と夢の中で言われたのですが、貧しい多治比文子は、北野に祠を建てられないので、自分の庭に祠を建て、道真を祀りました・・・現在・京都、文子天満宮となっています。
多治比文子は、道真の乳母とも神に仕える巫女とも伝えられるています。

またその数年後、近江国の比良宮の神職・神良種(みわよしたね)の息子に道真が乗り移り「北野の地に千本の松が生えている場所に祠を建て、私を祀ってほしい」と良種の幼い息子の口をかりて道真は伝えました。
神良種は、北野の朝日寺の住職・最珍に相談をすると、北野の地に一晩で松が生えた場所があり、多治比文子の元に道真が祀られていると聞いて、北野の右近の地に祠を建て、道真を祀りました。

この祠が、北野天満宮のはじまりです。

後に、右大臣・藤原師輔(ふじわらのもろすけ)が社を造営し、荘厳な社殿になりました。
藤原師輔は、忠平の息子で、父親から道真の事を聞いていたのかもしれませんね。

永延元年(987年)一条天皇より祭祀の使者が使わされて「北野天満宮天神」の称が贈られ、正暦4年(993年)正一位・右大臣、太政大臣の位が贈られ、怨霊と恐れられた道真が学問の神として崇敬されていきます。

道真が亡くなり怨霊となって、天神と称されるまでに90年の月日が経っていました。

学問だけで天皇に仕えていたら、道真が人々に恐れられた怨霊にはならなかったでしょう。
宇多天皇に重用されなければ、政争に巻き込まれることもなく怨霊にも神にもなることもなかったわけですが・・・。
秀才で才能があったのが、幸運でもあり災いにもなったのでしょうか・・・。

硬いイメージのある道真ですが、在原業平とも親交があり、遊女と楽しく遊んだとも言われています。
若い頃は、それなりに遊んだようです・・・女性は好きだったみたいですよ。
・・・こんなこといったら、天神さんに怒られる・・・?

江戸時代、寺子屋には学問の神として天神さまの尊像が置かれていました。
新年の初天神には、父兄参観でお祭りや行事があり、毎月25日の縁日には必ず天神社のお参りをしていたそうです。
25日は、道真の誕生日でもあり亡くなった日でもあります。

お近くに、天神社がありましたらお参りしてはいかがでしょうか?
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by yuzu-lotus-gt | 2010-10-01 17:09 | まりもメモ

菅原道真・その1

お久しぶりです・・・まりもです。
今年の夏は暑すぎて、北国育ちの私には堪えました・・・寒冷地仕様の体なので、脂肪が厚いんです・・・。

さてさて、柚さんが大宰府天満宮へ行かれたというので、菅原道真さんをいろいろ調べてみました。


学問・受験合格にご利益があり、天神さまと親しみをもって言われる菅原道真ですが、神さまとしての最初は、恨みを残して非業な死を遂げ、自分を貶めた者たちやその縁者に祟りを成した怨霊でした。

太宰府天満宮は、道真の遺体を大宰府の三笠郡という地に葬るため牛に乗せて運ぶ途中、安楽寺というお寺の前で牛が動かなくなり、仕方なく道真の遺体をその場に埋めて祠を建てたのが始まりといいます。

菅原道真は、承和12年(845年)に生まれています。
幼名は、阿呼(あこ)と言い、幼い頃から聡明で5歳の頃「梅の花 紅の色にも似たるかな 阿古がほほにもつけたくぞある」という和歌を詠んだと伝えられています。
11歳の時には漢詩も作ったとか・・・。

菅原氏は代々、学問で朝廷に仕えた家柄で、紀伝道という中国史・漢文学が専門だったそうです。
18歳の時、最年少で文章生(もんじょうせい)の試験に合格すると、260年の間に70名ほどしか合格者が出ていないという当時の最高難関国家試験に26歳で合格、33歳で文章博士(もんじょうはかせ)に昇進しています。

今なら、東京大学に合格し、大学院特待生、エリート官僚の道が約束され、東京大学教授にもなりました・・・といったところでしょうか・・・。

菅原と言う姓を名乗ったのは、道真の曽祖父古人(ふるひと)からで、古人が大和国菅原邑に住んでいたからと言われています。
それまでは、土師(はじ)という姓で、その系図をたどると・・・天穂日命(アメノホヒノミコト)という神さまにたどりつきます。
アメノホヒノミコトはアマテラスオオミカミとスサノヲが誓約(うけい)をした時にアマテラスオオミカミの勾玉から生まれた神さまなんですが・・・。
・・・ん?どっかで聞いたような話し?と思ったら、走湯神社のご祭神・天忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)とは兄弟神なんです。
先祖に神さまをもつ菅原道真が、怨霊からの出発とは・・・なんとも複雑ではありますね。

家柄としては中流貴族の道真が異例の昇進のきっかけは、第59代・宇多天皇の重用でした。
宇多天皇は、いちど臣下に下り氏を賜って源定省(みなもとのさだみ)となっていましたが、父の光孝天皇(こうこうてんのう)が皇太子を定めぬまま病になり、時の実力者・藤原基経(ふじわらのもとつね)の後押しもあって皇籍に復して天皇に即位しました。
ただ、後に、言葉の行き違いから、宇多天皇の太政大臣・関白就任の再三の申し出を基経は無視し続けます。
道真は基経に諌めの手紙を送り、基経も道真の言葉を受け入れて騒動は治まります。
この事から道真は宇多天皇の信任を受け、基経が亡くなると、その子時平(ときひら)はまだ若く藤原氏に基経のような実力者がいなかった事から、道真の昇進に異論を問う者はいませんでした。

宇多天皇が子の醍醐天皇に譲位した後も、道真は昇進をし、昌泰2年(899年)55歳で右大臣、28歳の時平も左大臣となりました。

昌泰4年(901年)時平は、道真が醍醐天皇を廃して、娘婿の斉世親王(ときよしんのう)を皇位に就けるため画策していると醍醐天皇に伝えます。
醍醐天皇は時平の言葉を信じ、道真を大宰権帥として左遷し、2年後の延喜3年(903年)2月25日、道真は大宰府で病没します。
この事件は、昌泰の変(しょうたいのへん)といい、宇多上皇と醍醐天皇の対立、学者の道真と貴公子の時平の確執などいろいろあってのことのようです。
大宰府へは、道真と幼い息子2人、長男など他の息子達は高知などに左遷になっています。
道真が亡くなる前に、幼い息子達が亡くなっているとも伝えられているので、道真の恨みはとても強いものになっていたでしょう。

道真が怨霊となった姿が、伝わっています。

道真の霊は、亡くなってすぐに比叡山延暦寺の座主・法性房尊意(ほっしょうぼうそんい)の前に現れます。
道真の霊は「私を左遷に貶めた者達に復讐をするため祟りますが、この者達があなたに助けを求めても、けしてそれに応じないで下さい」と法性房尊意に告げます。
法性房尊意は「帝から3度、お召しがありましたら、お断りが出来ませんよ」と言うと、道真の霊は座主の言葉はもっともな事と感じたのか、困った表情になったといいます。
道真の怒りをおさめようと、法性房尊意がザクロの実を勧めると、実を食べた道真の霊は口から炎を吐き怒りをあわらにすると、法性房尊意の前から姿を消しました。

・・・ここから、怨霊となった道真の祟りがはじまります。

・・・続きます。

京都・北野天満宮
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北野天満宮・社殿
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by yuzu-lotus-gt | 2010-09-29 17:06 | まりもメモ

浅間神社

浅間神社は全国に約1300社ほどあるといいます。

浅間神社の祭神は?・・・と言うと「木花咲耶姫・コノハナサクヤヒメ」と言われることが一般的ですが、この名前は別名で、神話では「神阿多都比売・カムアタツヒメ」「鹿葦津姫・葦津姫・カヤツヒメ」などが本名と書かれています。

父は「大山祇神・オオヤマツミノカミ」、姉に「石長比売・磐長姫・イワナガヒメ」がいます。

コノハナサクヤヒメは高天原より日向国に降りてきたニニギノミコトに笠沙の御前で見初められ、求婚されます。
その時のニニギノミコトのプロポーズの言葉は・・・。

「私はお前を妻にして、共に寝たいと思うのだが、お前の気持ちはどうだろうか?」

・・・古代の人って回りくどいことしないで、ストレートに自分の気持ちを伝えてたのかも・・・。

コノハナサクヤヒメの返事は「私からはお答えできません。父からお返事いたします」と父のオオヤマツミノカミにニニギノミコトから求婚されたことを伝えます。
オオヤマツミノカミは大変悦び、沢山の結納の品をそろえて姉のイワナガヒメと共に嫁がせました。
しかし、イワナガヒメは醜女だったため父神の元に返されます。
イワナガヒメは悲しみと恥ずかしさで呪いの言葉を言います。
「ニニギノミコトさまが私をお召しになり、御子が出来たならば、その御子は岩のごとく長命であったでしょう・・・」
「妹だけをお召しになられたので、その御子はコノハナという名の通り、美しく咲きますが、はかない命となりましょう・・・」
「生きとし生けるもの、すべての命が短命になるでしょう」・・・と・・・。

人が長命でないのは、この故事から由来するものと言われています。

ニニギノミコトの妃となったコノハナサクヤヒメは、一晩の契りで身ごもります。
ニニギノミコトは「一晩召しただけで子が出来るはずがない。その子は私の子ではなく、どこぞの国津神の子であろう」と懐妊を疑う言葉を言ったのです。

コノハナサクヤヒメは「私が産屋に入りましたら出入り口を塞ぎ火を放ちましょう。火に焼かれず御子が生まれましたら、その御子はミコトさまの御子でございます」と・・・。
業火の中、コノハナサクヤヒメはホデリ(海幸彦)・ホスセリ・ホオリ(山幸彦)の三柱を無事に生み、ニニギノミコトの御子であることを証明したのです。

神話では、その後のニニギノミコトとコノハナサクヤヒメのことが少し載っているのですが、懐妊を疑われたことを怒ったコノハナサクヤヒメは、ニニギノミコトと話しもしなくなり、ミコトは嘆いて歌を詠んでいます。

          沖つ藻は 辺には寄れども さ寝床も 与はぬかもよ 浜つ千鳥よ

(沖の海に漂う藻草は、浜のまにまに岸辺には寄って来るが、我が妻は遠く離れて、私に寝床も与えてくれないのか、浜の千鳥もひとつがいでいるものを)

・・・ニニギノミコトさま・・・奥さまが怒るのは当然だと思います・・・。

さて、コノハナサクヤヒメの本名「神阿多都比売・カムアタツヒメ」には次のような意味があると言われています。
「阿多・アタ」とは薩摩国阿多郡阿多郷の「阿多・アタ」で、この意味からコノハナサクヤヒメは薩摩国の阿多隼人の首領の娘だといいます。
・・・とすると、日本の山を統括しているオオヤマツミノカミは阿多隼人の首領なのかな・・・?
神話の中には、いろんな話しが隠されているようです。

天孫ニニギノミコトの御子を生んだことで、コノハナサクヤヒメは富士山を父神から譲り受け、富士の神として鎮座します。
静岡県富士宮市の富士山本宮浅間神社が全国の浅間神社の総本宮です。

コノハナサクヤヒメが生んだ、ホオリ(山幸彦)は、神武天皇の祖父にあたります。
宮崎県西都市に、女狭穂塚(めさほづか)という前方後円墳があるのですが、この古墳がコノハナサクヤヒメの陵墓と言われています。
また、男狭穂塚(おさほづか)という帆立貝形古墳も西都市にあり、ニニギノミコトの陵墓と伝えられています。
天皇家に伝わる陵墓ということで、宮内庁が管理しているので見学には制限ありのようです。

コノハナサクヤヒメの神徳は、農業・漁業・航海安全・安産・子授け・火難消除・織物業守護などです。
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富士山本宮浅間神社
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by yuzu-lotus-gt | 2010-06-02 17:22 | まりもメモ

まりもメモ・瀬戸神社その2

瀬戸神社に、お祀りされている神さまは多いですね。
たぶん、いろいろな理由で瀬戸神社にお祀りされるようになったのでしょう。

その中の「味耜高彦根命・アジスキタカヒコネノミコト」のお話しを・・・。


別名を「阿遅志貴高日子根神・アジシキタカヒコネノカミ」「阿遅須枳高日子命・アジスキタカヒコネノミコト」「阿遅鋤高日子根神・アジスキタカヒコネノカミ」といいます。
また、古代の豪族・賀茂氏の始祖と言われているので、「迦毛大御神・カモノオオカミ」ともいいます。

父は「大国主命・オオクニヌシノミコト」、母は「多紀理毘売命・タギリヒメノミコト」妹は「下照姫神・シタテルヒメノカミ」
妻はアメノミカジヒメ、子にタギツヒコがいます。

父、オオクニヌシノミコトは八百万の神々の中でも、ぴかいちの美男!
母、ダギリヒメノミコトは宗像大社に鎮座する宗像三女神の一柱で、この神さまも美女。
両親が美男美女ということで、アジスキタカヒコネノミコトも美青年の神さまです。

・・・どういう美青年かは、お好みの男性を妄想・・・いや、想像してください。

妄想図・・・いや想像図  ↓

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国譲りの神話で、タケミカヅチノカミがオオクニヌシの子タケミナカタノカミと力くらべで勝ち、地上の主権を譲り渡してもらいますが、タケミカヅチノカミがその役につく前、アメノホヒノカミとアメノワカヒコノカミが使者として地上に降りていました。

第一の使者アメノホヒノカミは、オオクニヌシノミコトに会うとその人柄に心服し使者としての役目を忘れ、そのまま地上に住み着いてしまい、3年の間、一度も高天原に何も報告をしませんでした。

それではダメだと、アメノワカヒコノカミを第二の使者に送ったのですが、アメノワカヒコノカミはオオクニヌシの娘シタテルヒメに恋していまい結婚。
地上の主の娘と結婚もしたし、オオクニヌシの後継者!地上の王になろう!・・・と野心をいだき8年もの間、高天原に報告をしませんでした。

高天原では、一向に報告をしてこないアメノワカヒコノカミに疑いを持ち、真意を確かめるため雉の鳴女(きじのなきめ)を使いに出したました。
アメノワカヒコノカミはその雉女を、地上に使者として降りてくる時にアマテラスオオミカミより賜った弓矢で射殺してしまったのです。
雉女を射た矢はアマテラスオオミカミのところまで飛んいき、雉女の殺害が発覚。
アマテラスオオミカミは「逆心の心があるなら、この矢がアメノワカヒコノカミに災いを与えるだろう」と矢を投げ返すと、矢はアメノワカヒコノカミの胸を射抜き、死んでしまいました。
アメノワカヒコノカミの妻子の嘆きは深く、高天原より父のアマツクニタマも駆けつけ喪屋を建て殯(もがり)の儀式をはじめました。

そこに、アメノワカヒコノカミの友人アジスキタカヒコネノミコトが高天原より弔問にやってきたのです。

シタテルヒメとアマツクニタマは驚きました。
アジスキタカヒコネノミコトはアメノワカヒコノカミとそっくりだったのです。

死んだアメノワカヒコノカミが蘇ったと、シタテルヒメやアマツクニタマは喜びアジスキタカヒコネノミコトに抱きつきました。
死者と間違われたアジスキタカヒコネノミコトは「穢らわしい!」と、持っていた剣で喪屋の柱を切り倒し、蹴り飛ばして天空に去っていきました。

う~ん・・・間違われたくらいで、そんなに怒らなくてもいいじゃん・・・て思うんですけどねぇ・・・。

「出雲国風土記」に、この神さまの養育の様子が載っていて、アジスキタカヒコネノミコトが幼児の頃、昼夜泣き止まないので船に乗せて八十島を巡ったり、高屋を建て梯子をかけて上げ下げさせて遊ばせたといいます。
・・・高屋は、ジャングルジムみたいな物でしょうか・・・。

気性の激しさや剣を持って天空を駆ける様は、雷、落雷を表した雷神の姿。
雷神は作物に雨をもたらす水の神であり、別名の阿遅鋤高日子根神の鋤(すき)は田の神を祀る時の呪具でもあり神の依代でした。

アジスキタカヒコネノミコトの若々しい姿は、青々と育つ稲を、アマテラスオオミカミが投げ返した矢で死んだアメノワカヒコノカミは、稲が黄金色に実り稲穂が垂れ、後は刈り取られる・・・という稲の成長を表しているとも言われています。

アジスキタカヒコネノミコトには、おや?っと思ったことがあって・・・。
オオクニヌシノミコトの息子であるアジスキタカヒコネノミコトは、地上に住まずに高天原にいるんですよ。
農業の神であり、雷を轟かせ恵みの雨を降らし地上とは縁が深いのになんで?・・・と思いましてね。

・・・神さまにも家族の事情っていうのがあるのかも・・・なんて想像しました。

アジスキタカヒコネノミコトの神徳は、農業守護・不動産業の守護・家内安全・商売繁盛・・・などです。
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by yuzu-lotus-gt | 2010-03-30 17:00 | まりもメモ

まりもメモ・瀬戸神社その1

瀬戸神社のご祭神「大山祇神・オオヤマツミノカミ」は別名「和多志大神・ワタシノオオカミ」「酒解神・サケトキノカミ」といいます。

オオヤマツミノカミは、日本の山の総元締めで、海にも関わりがあります。

父はイザナギ、母はイザナミ、妻は「鹿屋野比売神・カヤノヒメノカミ」
子はイワナガヒメ・コノハナサクヤヒメ、コノハナチルヒメ、カムオオイチヒメ・・・などなど。
神話で、父はオオヤマツミノカミという神さまが多く登場します。

山の神というと女神というイメージですが、オオヤマツミノカミは男神。
山仕事に女性がいると、山の神は女神なので女性に嫉妬し事故がおこる・・・と言われますが、山仕事は本来男性の仕事であり、そこに異性がいると、争いになり仕事が滞る。
山の仕事は危険なことが多く、争いの元は最初から近づけない・・・というのが理由なのでしょう。
山に関る企業では、オオヤマツミノカミをお祀りしていることが多いようです。

名のオオヤマというのは、立派で美しい高い山ということを表し、別名のワタシの「ワタ」とは海を、「シ」は司(つかさ)という意味で、オオヤマツミノカミは山と海とを司る神さまとして信仰されてきました。

・・・ですが、神話では、オオヤマツミノカミが活躍している話しは、ほとんど見かけません。
支配しているのは山と海と広大なのですが、ワクワクするような話しがないんです。
ワクワクする話しはありませんが、オオヤマツミノカミには父性が強く感じられる話しがあります。

天孫ニニギノミコトは、笠沙の御前(かささのみさき)でコノハナサクヤヒメを見初め、求婚します。
父神オオヤマツミノカミは、ニニギノミコトからの求婚を大いに喜び、コノハナサクヤヒメと姉神のイワナガヒメを共に嫁がせました。

でも、妃として迎えられたのはコノハナサクヤヒメだけ・・・イワナガヒメは父神の元へ帰されてしまいます。

コノハナサクヤヒメは「コノハナ・桜」のように可憐でたいそう美しかったのですが、イワナガヒメは山の岩石の精霊の化身なので、その容姿は醜いものだったのです。

ニニギノミコトからすると、結婚を申し込んだ相手はコノハナサクヤヒメなのに、なんでブス(すみません・・・)のイワナガヒメまでくるの?・・・という思いだったでしょう・・・ニニギノミコトの気持ちはわかります。

けれど、オオヤマツミノカミが姉妹でニニギノミコトに嫁がせたのには意味があってのことでした。

「姉妹でもって天孫に嫁がせたのは、生まれてくる御子の命が、姉神の雪にも風にもたえ永久であるように、妹神には木の花のように美しく咲き満ちて栄えるようにと占ったものです」
「イワナガヒメを帰されたことで、天孫の御子の命は、木の花のように散りはかないものになるでしょう」・・・と嘆きました。

この意味を知ってニニギノミコトが姉妹を共に妃にしていたら・・・歴代の天皇ばかりでなく日本人の寿命はもっと長寿になったかもしれません。

また、コノハナサクヤヒメがニニギノミコトの御子を産むと、オオヤマツミノカミは大変喜び「狭奈田の茂穂・さなたのもほ」(よく実った米)でアメノタムケ酒を造り天地の神々にふるまいました。
このことで、オオヤマツミノカミは「酒解神・サケドキノカミ」酒造の神となり、子のコノハナサクヤヒメも「酒解子神・サケトケノコノカミ」と呼ばれています。

全国にオオヤマツミノカミをお祀りするお社、お宮は一万社以上あると言われています。
その本拠地は、愛媛県大三島町の大山祇神社。
戦国時代には瀬戸内の水軍の守護神、武門の神としての信仰も厚かったようです。


オオヤマツミノカミの神徳は、鉱山業守護・農産・山林・酒造業守護・航海守護・漁業・商売繁盛・家庭平安・厄除けなどです。
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オオヤマツミノカミをお祀りしている、神奈川県の大山阿夫利神社
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by yuzu-lotus-gt | 2010-03-27 10:02 | まりもメモ

まりもメモ・雷神社

「火雷神・ホノイカヅチノカミ」の別名は「八雷神・ヤクサノイカヅチノカミ」といいます。


ホノイカヅチノカミが生まれたところは、黄泉の国。

火の神を産んだことで、陰部に大火傷をおったイザナミは看病のかいなく亡くなります。
イザナギは亡くなった妻を比婆の山に葬りますが、愛しい妻を忘れることが出来ず黄泉の国へと向かいます。

黄泉の国のイザナミの住まいまでたどり着き、イザナギは戸越に地上へ帰ろうと言うと、
「もう、黄泉の国の食べ物を食べてしまったので地上に戻ることはとても難しいのです」
「帰るためには黄泉神と話しをしないといけないので、そのまま待っていてください・・・けして、戸を開けて私の姿を見ることのないように・・・」・・・と、イザナミは家の奥へと入っていきました。

イザナギは長い時間待っていましたが、どのようなことになっているのだろうと、角髪(みづら)に結っている髪にさしていた櫛の歯を折り火を灯して戸の隙間から中を見てみると・・・。
そこには、美しかったイザナミではなく、声もつぶれ体も腐ってウジがわいている姿で、体には八柱の雷神がまとわり付いていたのです。

頭には、大雷(オホイカヅチ)胸には、火雷(ホノイカヅチ) 腹には、黒雷(クロイカヅチ) 陰部には、折雷(サクイカヅチ) 左手には、若雷(ワカイカヅチ) 右手には、土雷(ツチイカヅチ) 左足には、鳴雷(ナルイカヅチ) 右足には、伏雷(フスイカヅチ)

イザナギは恐ろしくなりその場から逃げ出しました。
イザナミは、醜い姿を見られた恥ずかしさと夫が約束を違えた怒りで「黄泉醜女・ヨモツシコメ」をさしむけます。
イザナギはヨモツシコメやその後に追ってきた八柱の雷神、黄泉の国の兵士などをいろいろな方法でかわしながら黄泉の国と地上の境にある黄泉比良坂(ヨモツヒラサカ)の坂本にたどり着き、坂にあった桃の実を追っ手に投げると悪霊達は逃げ帰っていきました。

最後にイザナミが追ってきたので、悪霊が地上に出ないようにヨモツヒラサカを大岩で塞ぎ、大岩を挟んでイザナギとイザナミの夫婦は、もう二度と会うことはない・・・と離縁の誓いをしたのです。

イザナミはこの後、黄泉の国の主となり「黄泉津大神・ヨミツオホカミ」「道敷大神・チシキノオホカミ」と呼ばれるようになりました。


八柱の雷神は、腐敗したイザナミの体から生まれた・・・というとあまり気持ちのいい話ではありませんが、
雷神の名前は、雷がおこすさまざまな現象をそれぞれ一柱の神さまとしてあらわしています。

雷が鳴ると雨が降る、落雷が多い地域では雷から身を守ってくれる神として、雷の激しい閃光と雷鳴を脅威と感じながらも、畏敬の念をもってお祀りしていたようです。

雷・かみなり・・・とは「神が鳴る」という言葉が語源と言われています。


ホノイカヅチノカミの神徳は、農業守護、雨乞いにご利益があると言われています。
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by yuzu-lotus-gt | 2010-03-12 22:56 | まりもメモ

まりもメモ・船越神社

船越神社は、お向かいにある景徳寺の境内に応安2年(1368年)足利3代将軍・足利義満の頃に建立された熊野社が最初といわれています。

熊野社の神さま「速玉之男命・ハヤタマノオノミコト」は、和歌山県の熊野三山のひとつ熊野速玉大社にお祀りされている神さまです。
熊野速玉大社では「熊野速玉大神」というお名前なのですが、ハヤタマノオノミコトはイザナギノミコトとも言われていて、いろいろないわれがあるので、熊野の神さまはちょっと複雑です。

神話では、火の神を生んで亡くなったイザナミノミコトに会いにイザナギノミコトが黄泉の国へと行き、変わり果てた妻の姿に驚いたイザナギノミコトが地上に逃げ帰るのを怒ってイザナミノミコトが追いかけ、いさかいとなった時に、他の神さまのとりなしで二度と会わないとイザナギノミコトがツバを吐いて誓約をしました。
そのツバからハヤタマノオノミコトは生まれたといわれています。

えぇぇ~ツバから~・・・と思うでしょう?
いろいろ調べてみると、昔々のその昔には大事な誓約の時、ツバを吐いていたようなんです。

熊野速玉大社では、御輿を船に乗せて海上を渡御する神事があり、このことからハヤタマノオノミコトは海に関る神さまといえます。

熊野三山は、もともと独立した神社だったようです。
平安時代に入ってから、それぞれの神さまをお祀りしあうようになり、他の神さまも取り込み、仏教とも結びついています。

熊野詣をすると、極楽浄土へ行ける・・・神社を詣でて極楽浄土?・・・と思いますが、これも、仏教の影響といえます。
よく「権現・ゴンゲン」といわれる仏さまをお見かけしますが、これは、神社に祀られている神さまは仏さまの仮の姿、神の本体は仏であり、神は人を救うため権現の姿で現れる「本地垂迹説・ほんちすいじやくせつ」というところからきいてるようなんです。
ハヤタマノオノミコトを仏とすると「薬師如来」の仮の姿といわれています。

・・・む・難しくて、私もよく分かっちゃいないんですけどね・・・。

サッカー日本代表のエンブレムの3本足の八咫烏は熊野社の眷属。
熊野の神が海からやってきた時、3本足の一羽の烏が道案内をしたといいます。
熊野社の護符の牛王宝院には、この八咫烏の絵が描かれています。
昔、この護符は誓約書として使われ、誓約したことを破ると、そのたびごとに熊野の烏が一羽ずつ死ぬと言われていました。

全国にある熊野社は3千以上、熊野・王子・十二所と呼ばれる神社が熊野の神さまをお祀りしています。

神徳は、豊漁守護・国土安隠・延命長寿・出世成功・病気平癒・縁結び・夫婦和合・子宝・安産などです。
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by yuzu-lotus-gt | 2010-02-19 15:55 | まりもメモ

まりもメモ・諏訪神社

全国に七千近くある諏訪社の総本社は、長野県の諏訪大社。
諏訪大社の神事を司っていた諏訪氏が平安末期頃から武士化し、鎌倉時代に北条氏と親密な関係になっていたようなので、阿部倉の諏訪神社も三浦の地に入ってきた諏訪氏に関る人が、社を建立し神さまをお祀りしたのかもしれません。

諏訪社の神さまは、「建御名方神・タケミナカタノカミ」

父は「大国主命・オオクニヌシノミコト」母は「沼河比売命・ヌナカワヒメノミコト」
ヌナカワヒメノミコトは高志国(こしのくに・北陸から山形県の南の一部)の沼河に住んでいて、オオクニヌシノミコトの求婚に応えて結婚し、タケミナカタノカミを生んだと言われています。

タケミナカタノカミは、「建御雷神・タケミカヅチノカミ」「経津主神・フツヌシノカミ」との日本三大軍神の一柱で、武勇に長けた神さまでもあります。

タケミナカタノカミは、国譲りの神話に登場します。

アマテラスオオミカミが豊葦原中の国(とよあしはらのなかのくに・日本国の美称)を手中するため、タケミカヅチノカミを中の国に使者として送ります。
タケミカヅチノカミは高天原の神さまの中でも強面の持ち主で、閃光と稲妻を轟かせながら出雲の伊那佐の浜に降り立ち、オオクニヌシノミコトに国を譲るよう迫りました。
オオクニヌシノミコトは「私のふたりの息子の意見を聞いてから答えましょう」と言うと、息子の「事代主命・コトシロヌシノミコト」とタケミナカタノカミに意見を求めました。
コトシロヌシノミコトは、タケミカヅチノカミの強面の迫力に圧倒され「天津神(あまつかみ)の言うとおりにいたしましょう」と答えると、いつも釣りをしている出雲半島の美保が関の海に潜ってしまいました。

タケミナカタノカミは国譲りには大反対で「この国が欲しければ、力で取っていけばいい!私が相手をする!」と戦いを申し出たのです。

ふたりが組み合いタケミナカタノカミがタケミカヅチノカミの手をつかもうとした時、その手が氷柱や剣に変化し、タケミナカタノカミがそれに怯んだ瞬間、タケミカヅチノカミはタケミナカタノカミの腕をつかみ軽々と投げ飛ばしてしまったのです。

負けたタケミナカタノカミは出雲国から逃げ出し、タケミカヅチノカミは科野国(信濃国・しなののくに)の州羽の海(諏訪湖・すわのうみ)まで追いかけてきて殺そうとしたのですが・・・。

タケミナカタノカミは「国譲りを認めます。今後、私は州羽の地から出ることはないでしょう」と服従を誓って許され、州羽の海のほとりに隠棲したと言われています。

・・・日本三大軍神というには、ちょっと・・・?というお話しでしょう。


これは、私の推測なんですが・・・。
アマテラスオオミカミの命を受けて、オオクニヌシノミコトに国譲りを迫ったタケミカヅチノカミは中臣氏(なかとみし)後の藤原氏の祖神と言われています。

諏訪地方に伝わる諏訪社の縁起譚「諏訪大明神絵詞・すわだいみょうじんえことば」には、タケミナカタノカミが諏訪の氏神・洩矢神(モレヤシン)と戦い、勝利したタケミナカタノカミがモレヤシンや諏訪湖の竜神を征服し従えて諏訪の地に鎮座したと記されいてるそうです。

タケミナカタノカミは、諏訪の外から来た神さまらしいのですが、出雲からやって来た・・・とは伝わっていないようなんです。
・・・なんかね、時の権力者が、自分の家系に関る神さまの印象を強めるために、地方神を利用したのではないかなぁ・・・と、思ったんです。

神話に登場する神さまの中には、地元の言い伝えとは違うものが時々見られます。
時には、中央に従わない地方氏族を征服し、それを神話にして書かいていることもあるようです。
神さまのいわれを読んでいるうちに、あれ?これは・・・?と思うことを見つけたとき、わくわくするんですよねぇ・・・。

タケミナカタノカミは坂上田村麻呂や名だたる武将たちが信仰したこともあって、武勇の神という印象が強いですが、農耕守護、風・水の神、山を生活の場にしていたマタギには狩猟の神としての姿が本当のようです。

神徳は、五穀豊穣・産業興隆・開運長寿・武運長久など。
また、タケミカヅチノカミとの戦いからお相撲の神さまでもあります。

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長野の諏訪大社(上社)
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by yuzu-lotus-gt | 2010-02-13 16:17 | まりもメモ

まりもメモ・八幡宮

私の記憶が確かならば・・・どっかで聞いたようなセリフ・・・。

八幡社の分祀は3万とも4万とも言われていて、稲荷社の次に多いはず・・・。
全国に散らばる八幡社の総本社は、大分県宇佐市に鎮座する宇佐神宮で、こちらには「誉田別命・ホンダワケノミコト」その母の「神功皇后・ジングウコウゴウ」と「比売大神・ヒメオオカミ」が祀られています。

・・・で、ホンダワケノミコトのお話しで・・・と思ったのですが、今回は、お母さまのジングウコウゴウのお話しを・・・。

神功皇后というお名前は後世に贈られたもので、お宮によっては「息長足姫命・息長帯比売命・オキナガタラシヒメノミコト」というお名前でお祀りされていることも多いです。
息長・オキナガというのは近江国の地名とも長寿という意味とも言われていて、タラシは天皇のお名前にもみられる尊称です。

ジングウコウゴウは、第14代「仲哀天皇・チュウアイテンノウ」のお后でした・・・正妻です。
熊襲征伐のため仲哀天皇は后と共に筑紫国に滞在していたところ、神が后の体に神懸かりし「西方に金銀財宝が豊かな国がある。その国を服属させて与えよう」という神託が下ったのですが、天皇は「高い所から西を見ても海ばかりでそんな国は見えない・・・見えない西方の国より、熊襲征伐が大事!」と神さまの神託を無視したのです。
天皇は神さまの怒りに触れ、その夜のうちに急死してしまいました。
ちなみに、仲哀天皇のお父さまは「日本武尊・ヤマトタケルノミコト」と言われています・・・熊襲征伐はこの親子に縁が深かったようです。

夫の遺体を殯宮(もがりのみや・高貴な人がなくなった時に本葬の前に仮葬儀をして納めるお宮)に納めて、心身を清めたのち改めて神に神意を問うと、「我は天神の意思を伝える住吉の神なり。この国は后の御腹に宿る皇子が納めるべし」という神託が下り、熊襲征伐より西方の国を服属させることが神意であると悟った后は、住吉の神の守護を受けて軍船を率いて玄界灘を渡ることを決意したのです。
この時、后は臨月のお腹を抱えていました。

神さまが言った西方の国とは新羅国のことでした。
新羅国遠征中に産気づいた后は、卵形のきれいな石をふたつ裳に包んで腰に巻きつけ出産を遅らせるよう呪いをしたのです。
すると陣痛の痛みは治まり、后はみごと新羅を平定しました。
戦も終わり筑紫国に凱旋した后は、腰に巻きつけていた石を外し、無事、皇子を産んだのです。
この皇子が「誉田別皇子・ホンダワケノミコ」後に第15代「応仁天皇・オウジンテンノウ」となります。
后が出産を遅らせるために腰に巻いた石は鎮懐石(ちんかいせき)と言われ、妊娠から出産まで15ヶ月だったといいます。

・・・神さまだから出来る業です。皆さんは真似しないように・・・。

大和に戻った后は、夫の他の皇子たちの皇位継承の反乱も鎮め、我が子ホンダワケノミコトを皇太子に立て自ら摂政となって国を治めました。
ホンダワケノミコトが天皇として即位したのは、母が死去した翌年・・・ジングウコウゴウは100歳で亡くなりました。

・・・強い、心身共にとっても強い母ですね。
母親が生きている間、ホンダワケノミコトが即位できなかったのは「まだまだ、私の目の黒いうちは任せられないわ~!」という母の強さだったのでしょうか・・・。

神功皇后の神徳は、安産・子育ての守護・病魔退散・家内安全・勝運(特に入試合格に効き目あり)にご利益があります。
入試には、強い母のご利益をいただきましょう。
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by yuzu-lotus-gt | 2010-01-27 17:03 | まりもメモ