蓮のうてな~GT~

カテゴリ:まりも写真館( 4 )

葉山神社

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山形県長井市白兎に鎮座している神社です。
創建は天慶年間(938~947)と伝えられています。
古くは葉山権現と言われていました。

明治40年に近隣にあった神社を合祀し、現在は4柱の神さまを祀っています。

保食神・ウケモチノカミ
大日婁貴命・オオヒルメノミコト
天細女命・アメノウズメノミコト
弥都姿能売神・ミヅハノメノカミ

ちなみに、大日婁貴命・オオヒルメノミコトはアマテラスオオミカミの別称です。

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参道の鳥居のような杉の木は、葉山神社の奥の院がある山の入り口です。

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鳥居前には狛犬ではなく狛兎。

地名の白兎は、平安時代、源義家と陸奥国に勢力を誇っていた安陪氏との戦で、義家は安陪氏を滅ぼしましたが、戦のために、その後330年もの間、土地は荒れ果てたままでした。
明徳4年(1393)に僧・恵法律師が羽黒山を詣でようと四ッ谷の森にさしかかったところ、森の上に美しい紫の雲がかかっていました。
不思議に思った恵法律師が森に入っていくと、澄んだ水を湛える池の中に、黄金に輝く薬師如来像を見つけたのです。
すると、白狐と白兎が現れ恵法律師を荒れ果てた西山に導きました。
恵法律師は、西山の山頂に社と葉山平にお堂を建て、薬師如来をお祀りしました。
このことから、地名が白兎となり、荒れ果てた土地も作物が生る豊かな土地となったといいます。

・・・恵法律師を山に案内したのは、白狐と白兎なんですけどね・・・白狐はどうなったんだ?

この白兎の地では、兎は神さまの使いで幸運を運ぶ・・・と言われていて、家畜として兎を飼うことは禁止していたこともあったそうです。

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境内には、樹齢800年といわれる枝垂桜があります。
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by yuzu-lotus-gt | 2010-08-27 15:45 | まりも写真館

江戸神社

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東京都千代田区外神田に鎮座する、神田神社(神田明神)の摂社です。

創建は、大宝2年(702)江戸最古の地主神です。
神田明神は730年の創建なので、それよりも古いお宮さんのようです。

ご祭神は、建速須佐之男命・タケハヤスサノオノミコト

最初に社が建てられた場所は、武蔵国豊島郡江戸・・・現在の皇居敷地内でした。

鎌倉時代に秩父から平家の江戸氏が現在の皇居周辺に移り住み、氏神として崇敬していました。
南北朝時代に江戸氏が衰退し江戸の地から離れましたが、社はそのままあったようで、太田道灌が江戸城を築城した時も社は城内にあり、徳川家康が江戸城を拡張する折に神田明神とともに神田台へ移され、元和2年(1616)に現在の外神田に鎮座しています。

社名が江戸神社となったのは、明治18年(1885)、それ以前は、江戸大明神・牛頭天王と呼ばれていたようです。

創建時の社の名称や様子などはわかりません。
お祀りされている神さまも、タケハヤスサノオノミコトではなかったかもしれません。

これは、私の想像ですが・・・。

1300年前、皇居近くまで海があったといいます。
もしかしたら、航海術に長けた氏族が航海の安全を願って建てた社だったのかもしれません・・・。
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by yuzu-lotus-gt | 2010-08-05 11:49 | まりも写真館

北海道神宮

北海道、札幌の実家に里帰りをした折に行ってきました。

札幌市中央区宮々丘に鎮座しています。
創建は明治2年、それまで蝦夷地といわれていた地を日本の領土として明確にするために北海道としたのを機に、明治天皇が開拓の神をお祀りするようにと詔をお出しになって、建てられました。

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写真は第3鳥居。
風水でいうと、ここはとても気の流れがいい場所のようです。

神門前
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社殿
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お祀りされている神さまは、開拓三神といわれている神さま。

大國魂神・オオクニタマノカミ
大那牟遅神・オオナムチノカミ
少彦名神・スクナヒコナノカミ
昭和39年に明治天皇・メイジテンノウをお祀りし、札幌神社から北海道神宮となり、四柱の神さまをお祀りしています。

明治天皇の命を受けて、悪路の山々を開拓の神のご神体を背負って来た島判官の像。
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いろいろと事情があって、こそこそと写真を撮ってきました。
携帯写真だから、写りがいまいち・・・。
この時の私は、たぶん、怪しい人だったろうなぁ・・・次回は、ちゃんとデジカメで撮ってこよう!
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by yuzu-lotus-gt | 2010-07-21 16:21 | まりも写真館

五巴神社(いつつともえじんじゃ)

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綺麗な桜にかこまれているこのお宮は、山形県上山市(かみのやまし)牧野(まぎの)という所に鎮座しています。


「五巴神社」のいわれです。

1747年(延享4年)、悪天候のため大凶作となり東北地方で多くの餓死者が続出しました。
上山藩御用達の米問屋は役人と結託し、農民から安く買った米を高値で売りつけ暴利をむさぼっていたのです。

その年の5月、見かねた、上山二日町の興平治と、新丁の仁左衛門は近隣の農民300人あまりと共に、深夜、暴利をむさぼる米問屋や裕福な屋敷に乱入。
数日後、牧野村の庄屋・太郎右衛門とその息子の太吉、関根村の庄屋・惣左衛門が中心となって、上山近隣の村の領民、約3000人を見留目原(みるめがはら)に集め、15ヶ条の願書をもって藩に直訴しました。

時の上山藩主は、松平信将(のぶまさ)。

上山は南北朝から戦国時代まで、最上氏や伊達氏の支配下にありました。
江戸時代になると、能見(のうみ)松平家・蒲生家・土岐家・金森家と藩主の入れ替わりが多く、藤井松平家の松平信通(のぶみち)が備中庭瀬藩より移封され、以後、10代の藩主ののち明治をむかえています。

信将は3代藩主で、2代藩主・長恒(ながつね)が病弱であったため藩主の任が出来ず、正室もむかえず子もなかったため、支流・伊賀守藤井松平家の信濃上田藩より長恒の養嗣子としてむかえられていました。

太郎右衛門達が藩に直訴をしていた時、信将は大阪城の勤番で国許にはいませんでした。
領民達の直訴を受けて、城代家老の山村縫殿助(ぬいのすけ)は、訴えを聞き入れたかたちをとり、金三百両、米千百表を与え、領民達を直ちに解散させたのです。

領民の直訴は、大阪の信将のもとへすぐに伝えられ、その詳細は幕府も知るところとなりました。
この時代、徒党を組み直訴する行為は、大罪です。
12月、太郎右衛門、息子の太吉ら5人は捕らえられ、騒乱罪で処刑された後、その首は3日間晒されました。

牧野村の太郎右衛門の屋敷は、藩に没収され番人がおかれました。

ほどなく、人々が恐怖する現象が起こり始めました。

藩士の馬や農耕馬が太郎右衛門の家を通りかかると、突然、暴れだしたり、動かなくなったりと異変があり、深夜になると処刑された5人の首が「巴」という文字を書くように宙をぐるぐると回る怪奇現象がおこったのです。
領民の苦境を救うため直訴し処刑され、霊となって現れる5人を人々は供養したいと思ったのですが、藩に対して公に供養することはできませんでした。

年月が経ち、10代藩主・松平信安(のぶやす)の代で明治になり、1871年(明治4年)7月、廃藩置県により上山藩は県となって、藩主だった信安も東京へ移住していきました。

1896年(明治29年)、子や孫へと太郎右衛門たち5人のことを語り継いでいた人々は、処刑された5人の首が「巴」という文字を書くように宙を回ったことから「五巴神社」と彫った石碑を太郎右衛門の屋敷跡に建立。
1923年(大正12年)、社を建てて5人の霊をお祀りしました。

牧野の周辺の人々は「五巴神社」を、親しみをこめて「太郎右衛門さま」と呼んでいるそうです。


参考資料・山形新聞社「やまがた・地名伝説」
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by yuzu-lotus-gt | 2010-05-14 16:38 | まりも写真館