蓮のうてな~GT~

<   2011年 02月 ( 1 )   > この月の画像一覧

まりもメモ・岡村天満宮

お久しぶりです・・・まりもです。

新年早々引いた風邪が長引きまして・・・歳を増すごとに風邪も治りにくくなりませんか?
・・・私だけ・・・?・・・みなさんも、体調にはお気をつけ下さい。

さて、時間が経ってしまいましたが、岡村天満宮について・・・。

菅原道真が北野天満宮に天神として祀られた後も、天満大自在天神、日本太政威徳天と呼ばれ恐ろしい怨霊として恐れられました。
神となっても100年程、大きな災害が起きると、天神の祟りだと言われていたのです。
天神の祟りを治めようと、各地に天神社が建てられ全国に天神信仰が広まっていきました。

平安時代末頃から怨霊と恐れられることが薄れて、道真が秀才で優れた学者だったことから学問の神として信仰されていき、鎌倉時代初期の「天神縁起」には、慈悲の神・正直な神としても信仰されていたようです。

岡村天満宮を創建したのは、源頼朝の家臣と伝えられていますが、建久年間(1190~1198)に磯子周辺を領地にしていたのは、三浦氏一族の平子氏(たいらごし)でした。
頼朝の家臣で、平子有長(たいらごありなが)と言う人物がいます。
平子有長は頼朝が平家追討で旗揚げした時に、三浦氏に加わり馳せ参じ、後に御家人となっています。

鎌倉から室町時代にかけて磯子周辺の村々を合わせて平子庄といい、玄蕃屋敷といわれる平子氏が関る家人が住んでいたと思われる、屋敷跡もあります。

・・・と言うことから・・・あくまでも私の想像ですが・・・。

岡村天満宮を建立したのは、建久年間に磯子周辺を領地にし、頼朝に仕えていた平子有長だと思うのです。

京都の北野天満宮から天神を勧請したのはなぜか・・・?

天変地異を治めるために・・・という理由はこの時代もう薄らいでいると思われ、学問の神として・・・と言うのも、なるほど・・・というほどの理由とは思えません。

三浦氏宗家はもともと源氏と繋がりがあり、頼朝が流人として伊豆にいた折にも配所を訪ねていました。
平子有長は、平氏討伐後に三浦氏の推挙によって御家人の列に加わっています。
幕府内での平子氏の地位は、頼朝が幕府を開く以前より関わりのあった御家人達に比べると、そう高くはなかったのではないか・・・と想像するのです。

菅原道真の家はもともと学問で天皇家に仕えていて、深く公の政には関わることはなかったのですが、時の天皇に目をかけられ、藤原家以外で異例の出世をとげた・・・と言うことを平子有長も知っていたでしょう。
後に道真は無実の罪で左遷となり、非業の死をとげ怨霊となってしまいますが、道真の出世を平子有長は幕府内での自身の出世と重ね合わせ願をかけた・・・。

もちろん、無骨な坂東武士といっても和歌を詠むくらいの教養は必要であったでしょう。
けれど、学問や教養の向上のためだけに天神を迎えた・・・とは思えないのです。

みなさんは、どう・・・思いますか・・・?
[PR]
by yuzu-lotus-gt | 2011-02-22 16:50 | まりもメモ