蓮のうてな~GT~

子神社

あけましておめでとうございます。

初詣にはいかれましたか?
私は・・・実はまだですー。
わーごめんなさい!!

ばたばたしてるうちに、なんだか年を越してしまいました。(もー言い訳!滝汗)
それでも旅はまだまだ続きます。

さて、こちらは磯子区の蒔田にあります、子神社です。

a0145274_237284.jpg


小さな地元密着の神社さんです。

a0145274_2371592.jpg


背の高い銀杏が印象的です。

a0145274_2372984.jpg


この神社の後ろ側は、少し小高い丘になっています。
ここも古くから人が住み着いているような感じがしました。

道がくねってたり、狭かったりするところや、近くに街道筋があるところは
大抵古くから村があるところですね。

時期的に七五三の頃だったので、なんとなくウェルカムな風情があります。

a0145274_2374148.jpg



[PR]
# by yuzu-lotus-gt | 2011-01-08 21:50 | 北へ 横浜(金沢区磯子区)編

岡村天満宮

今回は道真公でおなじみ天神様、 こと 一部のファン?の間では
ある意味超有名な「岡村天満宮」を訪れました。

なんで有名かというと・・・それは「ゆず」の二人の出身地の氏神様だから!爆


ま、ソレは置いといて。
ここには色んな狛犬ちゃんと撫で牛さんがいます。

a0145274_2142367.jpg


参道を上がってくると、狛犬ちゃんたちがお出迎えです。

a0145274_21421363.jpg


800年以上の歴史を持つ天神様ですが・・・

a0145274_21422212.jpg


この天神様のすぐ隣の丘には三殿台遺跡があります。
この遺跡は縄文弥生古墳時代の集落跡なのです。
その数250軒以上もの住居跡が見つかっています。
と、いうことはそれなりの「聖地」が近くにあってしかるべきだと考えます。

おそらくはそれなりの「聖地」には「土着」の神様がいたのではないでしょうか?
そこへ道真公を勧請して、「祟り神」としての力をお借りしたのではないでしょうか?
(まりもさんとこのような意見と推理をしてみました。
まりもさんからも是非ご意見ください。
皆さんもご意見ください。)

a0145274_21423453.jpg


これはかなり最近の撫で牛さん。

a0145274_21424189.jpg


鮮やかな朱色が目をひく天神様です。

a0145274_21424937.jpg


こちらの絵馬はちょっと変わっていて、2枚セットになっています。
1枚は願いを書いてこちらにかけておきます。
もう1枚はいただいて帰って、願いを書いて手元においておきます。

a0145274_21425987.jpg


もうひとつの聖地の証。「ゆず」壁画。
以前は伊勢崎町のマツザカ屋さんの屋上にあったものです。
これを発見したときは、素でびっくりしました。
だって、ねぇ・・・まさかと思うやん。

a0145274_21431238.jpg


ここも小高い丘の上にあるお宮さんです。
瀬戸神社より北側の神社は、このように大昔は海っぱたの小高いところにありました
という感じの場所がたくさんあります。

この共通項は一体・・・?


[PR]
# by yuzu-lotus-gt | 2010-12-10 23:02 | 北へ 横浜(金沢区磯子区)編

殿岡神社

9月に大阪に帰省したときにちょっと立ち寄った神社がこちらです。
高槻市にあります、殿岡神社です。

a0145274_21294061.jpg


どうやら元々はお稲荷さんのようです。

a0145274_21295161.jpg


これが社殿脇にある古墳の入り口です。
さすがに入ることはしなかったのですが、たしか三浦半島にもありましたね。
古墳と神社が一緒になってるとこ。

a0145274_2130164.jpg


奉納絵馬があったので、撮ってきました。
これはいったいどんな願いがこめられていたのでしょう?

a0145274_21301896.jpg


金箔もさりげなく貼り付けてあったりして、お金持ちが奉納したんでしょうか?

a0145274_21302999.jpg


こちらは殿岡神社と道を挟んだところにある「大神宮」。
一体なんの「大神宮」なのかさっぱりわからないとても小さなお社です。
もしかすると「磐鞍」にお社を乗っけたのでしょうか?
謎は深まるばかりです。

a0145274_21303754.jpg

[PR]
# by yuzu-lotus-gt | 2010-10-20 22:27 | 神のやしろ

菅原道真・2

a0145274_16524655.jpg

東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ

道真の死後、都では天変地異意や日照り、疫病などがおこります。
また、道真左遷に関った者、その縁者が亡くなっていきます。

最初は、道真左遷の陰謀に関与した、藤原定国(ふじわらのさだくに)が40歳で急死(906年)

道真左遷の知らせを受け、醍醐天皇へ直訴するために駆けつけた宇多上皇を、皇居門前で阻止した藤原菅根(ふじわらのすがね)が雷に打たれて死亡(908年)・・・この人は、道真が目をかけていたようです。

道真左遷の張本人・藤原時平は狂死、39歳(909年)
時平の両耳から道真の化身の蛇が現れて、祈祷も利かなかったといいます。

道真に不満をもち、職務放棄などをした中心人物の源光(みなもとのひかる)は、狩の最中、馬と共に底なし沼にはまり行方不明(913年)

醍醐天皇の皇太子・保明親王(やすあきらしんのう)が21歳で急死(923年)

延喜23年(923年)朝廷は、天変地異や怪奇現象等は道真の怨霊によるものと考え、道真を大宰権帥(だざいのごんのそち)から右大臣に戻し、道真左遷に関する天皇の詔の関係書類を焼き捨てます。
この時の火が周辺に広がり、その場にいた役人や僧侶が何人も焼死しするという事故がおこります。

保明親王の子で醍醐天皇の皇孫、父の死後、皇太子となった慶頼王(よしよりおう)が5歳で病死(925年)
保明親王は時平の娘を妃に迎えていて、慶頼王は時平の娘が生んだ皇子でした。

息子や孫が亡くなって、醍醐天皇の心は穏やかではなかったでしょう。

その後も、干ばつや天変地異は続き、延長8年(930年)6月26日午後1時半頃、にわかに都に黒雲が垂れこめ、激しい雷雨となり、朝議中の清涼殿の柱に雷が落ち、道真左遷に関与したと言われる、大納言・藤原清貫(ふじわらのきよつら)が雷の直撃をうけ即死。
周辺にいた他の貴族・女官にも死傷者が出ました。

朝廷はこの出来事で、道真の怨霊・祟りにパニック状態!
菅原道真の怨霊は雷を操り雷神となって、日本に大きな祟りをしようとしている!と人々は噂し恐れました。

道真が天神さまと呼ばれるようになったのは、この落雷事件で雷神と結びついていると考えられたためです。

清涼殿の落雷事件の後、朝廷は地方に左遷した道真の息子達を京に呼び戻しています。

醍醐天皇は、落雷の惨劇を目の当たりにしたためか体調を崩して、8歳の皇太子・寛明親王(ひろあきらしんのう)に譲位(後の朱雀天皇・すざくてんのう)、落雷事件の3ヵ月後、46歳で崩御しました(930年)

道真の祟りに怯える藤原氏が多い中、藤原忠平(ふじわらのただひら)は、清涼殿落雷の時も難を逃れ、祟りの影響はありませんでした。
忠平は道真左遷の張本人・時平の弟なのですが道真と親交があり、兄・時平とはあまり兄弟仲は良くなかったようです。
忠平は、大宰府にいる道真を気の毒に思い励ましの手紙を送っていました。
時平の死後、その子供達も道真の祟りのためか子孫は衰退しますが、忠平は後に、摂政・関白となり藤原北家の中心となって子孫は栄えます。

・・・ちなみに、後々の事になりますが、この忠平に平将門が家人として使えていました・・・。

清涼殿の落雷事件から15年ほどたった頃、多治比文子(たじひのあやこ)の夢枕に道真が現れ「北野の右近の馬場に祠を建て、私を祀ってほしい」と夢の中で言われたのですが、貧しい多治比文子は、北野に祠を建てられないので、自分の庭に祠を建て、道真を祀りました・・・現在・京都、文子天満宮となっています。
多治比文子は、道真の乳母とも神に仕える巫女とも伝えられるています。

またその数年後、近江国の比良宮の神職・神良種(みわよしたね)の息子に道真が乗り移り「北野の地に千本の松が生えている場所に祠を建て、私を祀ってほしい」と良種の幼い息子の口をかりて道真は伝えました。
神良種は、北野の朝日寺の住職・最珍に相談をすると、北野の地に一晩で松が生えた場所があり、多治比文子の元に道真が祀られていると聞いて、北野の右近の地に祠を建て、道真を祀りました。

この祠が、北野天満宮のはじまりです。

後に、右大臣・藤原師輔(ふじわらのもろすけ)が社を造営し、荘厳な社殿になりました。
藤原師輔は、忠平の息子で、父親から道真の事を聞いていたのかもしれませんね。

永延元年(987年)一条天皇より祭祀の使者が使わされて「北野天満宮天神」の称が贈られ、正暦4年(993年)正一位・右大臣、太政大臣の位が贈られ、怨霊と恐れられた道真が学問の神として崇敬されていきます。

道真が亡くなり怨霊となって、天神と称されるまでに90年の月日が経っていました。

学問だけで天皇に仕えていたら、道真が人々に恐れられた怨霊にはならなかったでしょう。
宇多天皇に重用されなければ、政争に巻き込まれることもなく怨霊にも神にもなることもなかったわけですが・・・。
秀才で才能があったのが、幸運でもあり災いにもなったのでしょうか・・・。

硬いイメージのある道真ですが、在原業平とも親交があり、遊女と楽しく遊んだとも言われています。
若い頃は、それなりに遊んだようです・・・女性は好きだったみたいですよ。
・・・こんなこといったら、天神さんに怒られる・・・?

江戸時代、寺子屋には学問の神として天神さまの尊像が置かれていました。
新年の初天神には、父兄参観でお祭りや行事があり、毎月25日の縁日には必ず天神社のお参りをしていたそうです。
25日は、道真の誕生日でもあり亡くなった日でもあります。

お近くに、天神社がありましたらお参りしてはいかがでしょうか?
a0145274_1735455.jpg

[PR]
# by yuzu-lotus-gt | 2010-10-01 17:09 | まりもメモ

菅原道真・その1

お久しぶりです・・・まりもです。
今年の夏は暑すぎて、北国育ちの私には堪えました・・・寒冷地仕様の体なので、脂肪が厚いんです・・・。

さてさて、柚さんが大宰府天満宮へ行かれたというので、菅原道真さんをいろいろ調べてみました。


学問・受験合格にご利益があり、天神さまと親しみをもって言われる菅原道真ですが、神さまとしての最初は、恨みを残して非業な死を遂げ、自分を貶めた者たちやその縁者に祟りを成した怨霊でした。

太宰府天満宮は、道真の遺体を大宰府の三笠郡という地に葬るため牛に乗せて運ぶ途中、安楽寺というお寺の前で牛が動かなくなり、仕方なく道真の遺体をその場に埋めて祠を建てたのが始まりといいます。

菅原道真は、承和12年(845年)に生まれています。
幼名は、阿呼(あこ)と言い、幼い頃から聡明で5歳の頃「梅の花 紅の色にも似たるかな 阿古がほほにもつけたくぞある」という和歌を詠んだと伝えられています。
11歳の時には漢詩も作ったとか・・・。

菅原氏は代々、学問で朝廷に仕えた家柄で、紀伝道という中国史・漢文学が専門だったそうです。
18歳の時、最年少で文章生(もんじょうせい)の試験に合格すると、260年の間に70名ほどしか合格者が出ていないという当時の最高難関国家試験に26歳で合格、33歳で文章博士(もんじょうはかせ)に昇進しています。

今なら、東京大学に合格し、大学院特待生、エリート官僚の道が約束され、東京大学教授にもなりました・・・といったところでしょうか・・・。

菅原と言う姓を名乗ったのは、道真の曽祖父古人(ふるひと)からで、古人が大和国菅原邑に住んでいたからと言われています。
それまでは、土師(はじ)という姓で、その系図をたどると・・・天穂日命(アメノホヒノミコト)という神さまにたどりつきます。
アメノホヒノミコトはアマテラスオオミカミとスサノヲが誓約(うけい)をした時にアマテラスオオミカミの勾玉から生まれた神さまなんですが・・・。
・・・ん?どっかで聞いたような話し?と思ったら、走湯神社のご祭神・天忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)とは兄弟神なんです。
先祖に神さまをもつ菅原道真が、怨霊からの出発とは・・・なんとも複雑ではありますね。

家柄としては中流貴族の道真が異例の昇進のきっかけは、第59代・宇多天皇の重用でした。
宇多天皇は、いちど臣下に下り氏を賜って源定省(みなもとのさだみ)となっていましたが、父の光孝天皇(こうこうてんのう)が皇太子を定めぬまま病になり、時の実力者・藤原基経(ふじわらのもとつね)の後押しもあって皇籍に復して天皇に即位しました。
ただ、後に、言葉の行き違いから、宇多天皇の太政大臣・関白就任の再三の申し出を基経は無視し続けます。
道真は基経に諌めの手紙を送り、基経も道真の言葉を受け入れて騒動は治まります。
この事から道真は宇多天皇の信任を受け、基経が亡くなると、その子時平(ときひら)はまだ若く藤原氏に基経のような実力者がいなかった事から、道真の昇進に異論を問う者はいませんでした。

宇多天皇が子の醍醐天皇に譲位した後も、道真は昇進をし、昌泰2年(899年)55歳で右大臣、28歳の時平も左大臣となりました。

昌泰4年(901年)時平は、道真が醍醐天皇を廃して、娘婿の斉世親王(ときよしんのう)を皇位に就けるため画策していると醍醐天皇に伝えます。
醍醐天皇は時平の言葉を信じ、道真を大宰権帥として左遷し、2年後の延喜3年(903年)2月25日、道真は大宰府で病没します。
この事件は、昌泰の変(しょうたいのへん)といい、宇多上皇と醍醐天皇の対立、学者の道真と貴公子の時平の確執などいろいろあってのことのようです。
大宰府へは、道真と幼い息子2人、長男など他の息子達は高知などに左遷になっています。
道真が亡くなる前に、幼い息子達が亡くなっているとも伝えられているので、道真の恨みはとても強いものになっていたでしょう。

道真が怨霊となった姿が、伝わっています。

道真の霊は、亡くなってすぐに比叡山延暦寺の座主・法性房尊意(ほっしょうぼうそんい)の前に現れます。
道真の霊は「私を左遷に貶めた者達に復讐をするため祟りますが、この者達があなたに助けを求めても、けしてそれに応じないで下さい」と法性房尊意に告げます。
法性房尊意は「帝から3度、お召しがありましたら、お断りが出来ませんよ」と言うと、道真の霊は座主の言葉はもっともな事と感じたのか、困った表情になったといいます。
道真の怒りをおさめようと、法性房尊意がザクロの実を勧めると、実を食べた道真の霊は口から炎を吐き怒りをあわらにすると、法性房尊意の前から姿を消しました。

・・・ここから、怨霊となった道真の祟りがはじまります。

・・・続きます。

京都・北野天満宮
a0145274_16562631.jpg

北野天満宮・社殿
a0145274_16573353.jpg

[PR]
# by yuzu-lotus-gt | 2010-09-29 17:06 | まりもメモ