蓮のうてな~GT~

熊野神社 杉田

今回も御近所さんから愛されてるであろう鎮守の森です。
京急杉田駅からほど近くにあります、熊野神社さんです。

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ここも谷津の浅間さんと似たような感じで、住宅街を抜けた静かな丘のてっぺんにあります。
しかし、大きな違いは階段が古くてかなり怖い感じに・・
あっ、そういえば画像消しちゃった。(とほほ)

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時代の波に押された神様たちがこちらに集合なさっています。
金毘羅さん、摩利支天さん、お稲荷さん、泉蔵社さん。

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うっ、サビサビの華が・・

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由緒書きによりますと

建久三年(1192) 源頼朝が征夷大将軍になった年、
鎌倉四家の道場 (山崎ノ泉蔵社・亀ヶ谷ノ権現堂・二階堂ノ愛泉坊・蔵見堂) の内、
山崎泉蔵院の僧真締智覚法印に治国安民の祈祷を命じた。
頼朝の命を受けた智覚法印は、我が国第一の霊場とされて居る紀州熊野に参籠して幣帛を捧げ、
三所権現の御分霊を樟の舟に乗せ祈りを込めて海に流した。
樟舟は神意のまにまに旬日の後中原の海岸に流れ着き、この事が将軍に伝わり、
頼朝は御神慮の有難さを感じて、近くの地に神殿を建てるよう智覚法印に命じた。

智覚法印は東に海を望む景勝の当地を選び山上に熊野三所権現社を祀り、
山裾に紀州山桐谷寺を建立すべく同年五月六日に着工し十一月十五日に完成した。
後に桐谷寺は山号を大霊山泉蔵院と改め熊野権現社の別当として当社に奉仕し、
国家安泰、万民和楽の祈願を続けて来た。

明治初年の神仏分離令により社名を熊野神社と改め法印は神職となり、
約七百年間続いた泉蔵院は廃寺となってしまった。
明治四十三年、神社統合令により村内の中原明神・諏訪神社の二社が合祀された。

御祭神は伊弉冉尊さま、事解之命さま、速玉之命さま、日本武之尊さま、建御名方命さま。


それにしても、ここにまで源頼朝公の息がかかっているとは。
もちろん、「伝説」の域もでませんが時の支配者はすごい。

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# by yuzu-lotus-gt | 2010-05-18 21:59 | 北へ 横浜(金沢区磯子区)編

五巴神社(いつつともえじんじゃ)

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綺麗な桜にかこまれているこのお宮は、山形県上山市(かみのやまし)牧野(まぎの)という所に鎮座しています。


「五巴神社」のいわれです。

1747年(延享4年)、悪天候のため大凶作となり東北地方で多くの餓死者が続出しました。
上山藩御用達の米問屋は役人と結託し、農民から安く買った米を高値で売りつけ暴利をむさぼっていたのです。

その年の5月、見かねた、上山二日町の興平治と、新丁の仁左衛門は近隣の農民300人あまりと共に、深夜、暴利をむさぼる米問屋や裕福な屋敷に乱入。
数日後、牧野村の庄屋・太郎右衛門とその息子の太吉、関根村の庄屋・惣左衛門が中心となって、上山近隣の村の領民、約3000人を見留目原(みるめがはら)に集め、15ヶ条の願書をもって藩に直訴しました。

時の上山藩主は、松平信将(のぶまさ)。

上山は南北朝から戦国時代まで、最上氏や伊達氏の支配下にありました。
江戸時代になると、能見(のうみ)松平家・蒲生家・土岐家・金森家と藩主の入れ替わりが多く、藤井松平家の松平信通(のぶみち)が備中庭瀬藩より移封され、以後、10代の藩主ののち明治をむかえています。

信将は3代藩主で、2代藩主・長恒(ながつね)が病弱であったため藩主の任が出来ず、正室もむかえず子もなかったため、支流・伊賀守藤井松平家の信濃上田藩より長恒の養嗣子としてむかえられていました。

太郎右衛門達が藩に直訴をしていた時、信将は大阪城の勤番で国許にはいませんでした。
領民達の直訴を受けて、城代家老の山村縫殿助(ぬいのすけ)は、訴えを聞き入れたかたちをとり、金三百両、米千百表を与え、領民達を直ちに解散させたのです。

領民の直訴は、大阪の信将のもとへすぐに伝えられ、その詳細は幕府も知るところとなりました。
この時代、徒党を組み直訴する行為は、大罪です。
12月、太郎右衛門、息子の太吉ら5人は捕らえられ、騒乱罪で処刑された後、その首は3日間晒されました。

牧野村の太郎右衛門の屋敷は、藩に没収され番人がおかれました。

ほどなく、人々が恐怖する現象が起こり始めました。

藩士の馬や農耕馬が太郎右衛門の家を通りかかると、突然、暴れだしたり、動かなくなったりと異変があり、深夜になると処刑された5人の首が「巴」という文字を書くように宙をぐるぐると回る怪奇現象がおこったのです。
領民の苦境を救うため直訴し処刑され、霊となって現れる5人を人々は供養したいと思ったのですが、藩に対して公に供養することはできませんでした。

年月が経ち、10代藩主・松平信安(のぶやす)の代で明治になり、1871年(明治4年)7月、廃藩置県により上山藩は県となって、藩主だった信安も東京へ移住していきました。

1896年(明治29年)、子や孫へと太郎右衛門たち5人のことを語り継いでいた人々は、処刑された5人の首が「巴」という文字を書くように宙を回ったことから「五巴神社」と彫った石碑を太郎右衛門の屋敷跡に建立。
1923年(大正12年)、社を建てて5人の霊をお祀りしました。

牧野の周辺の人々は「五巴神社」を、親しみをこめて「太郎右衛門さま」と呼んでいるそうです。


参考資料・山形新聞社「やまがた・地名伝説」
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# by yuzu-lotus-gt | 2010-05-14 16:38 | まりも写真館

谷津浅間神社

こちらは金沢文庫駅からほど近くにあります、谷津浅間神社(やつせんげんじんじゃ)さんです。
この道から階段をひたすら登っていきますと、丘のてっぺんあたりにお社があります。

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浅間さんということは、木花開耶姫さまがお奉りされていることだけはわかったのですが・・
唯一見つけたのは藤原道長伝説だけです。
 
 「能見堂縁起によると、寛仁年間(1017~1020)御堂関白藤原道長公がここに来て
  ここからの素晴らしい眺めを見て、草庵を結んだのがはじまりとされています。
  また谷津の浅間神社についても同じ頃来遊した道長公が能見堂から「かねさは」の景色を見て、
  正面のすぐ目の下に見えるこんもりと松の茂った森を塗桶の形に似ていることから塗桶山と
  名づけ、そこに浅間大神(木花咲耶姫)を勧請したと伝えられています。
  当時の「かねさは」は東国の草深い村で藤原道長が来遊した史実はありません。
  金沢八景の景観の素晴らしさを伝えるために生まれた伝説と考えらています。」


だ、そうです。


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赤い小さなお社。
冬のお祭りの夜は、幻想的な明かりがふもとから道沿いにお山まで灯ります。
何度か駅からみたことはありますが、それはなにか次元の違うところにある
場所のように思えました。

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# by yuzu-lotus-gt | 2010-05-13 22:28 | 北へ 横浜(金沢区磯子区)編

報徳二宮神社

あなたは覚えているだろうか?

小学校の隅っこでいつも本を読んでいた彼を。
背には薪を背負い、子どもらにほっぺたぐるぐるにいたずら書きされても
たとえ片腕がもげようともひたすら本を読んでいた彼を。

今彼はどこにいけば会えるのだろうか・・・?

あ、ここか~。

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二宮 尊徳(にのみや そんとく、天明7年7月23日(1787年9月4日) - 安政3年10月20日(1856年11月17日))
は日本の江戸時代後期に「報徳思想」を唱えて、「報徳仕法」と呼ばれる農村復興政策を指導した農政家・思想家。
通称は金次郎(正しい表記は「金治郎」)。諱の「尊徳」は正確には「たかのり」と訓む。

ものしりのWiki先生に教えてもらいました。笑

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詳しくはこちらへ。

報徳二宮神社
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# by yuzu-lotus-gt | 2010-05-06 22:21 | 神のやしろ

山神社

今回はちょっと寄り道。

まりもさんと小田原市長興山紹太寺にある有名なしだれ桜を見に行ったときに
近くにあった山神社です。

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よく見ていただくとわかるのですが、こちらの神社のご祭神は天狗様です。

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すか~っとしたほんとに風通しのよい神社で、お参りしてからその場にたたずんでいると
一陣の風が過ぎ去っていきました。

なんとなく、歓迎されてるのかな?と思いました。


実は・・・図書館で資料を探してみたのですが、全く見当たりませんでした。
探し方が悪かったのかもしれません。

なにか御存じの方いらっしゃいましたら、是非ともお教えくださいませ。

・・・というわけで、まりもさんから情報が入りました!


 神社名は、山神社ではなく、山神神社「さんじんじんじゃ」。
 祭神は、オオヤマヅミノミコト。
 娘のコノハナサクヤヒメも祀っているらしい…。

 境内にあった石祠は、天和年間(1681~3)に早川と言う川の氾濫で消えた、
 後河原村「うしろがわらむら」から移したもののようだよ。

 神社名はすぐに分かったけど、情報は少ないねぇ。
 でも、天和年間の早川の氾濫の時には、すでにあったお宮のようだから、
 4、500年は経ってるんじゃないかなぁ。

すごっ!
図書館で探してみつからなかったのに、まりもさんやるな~。さんくす!!
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# by yuzu-lotus-gt | 2010-04-20 21:47 | 神のやしろ